「完璧な英語」なんて、人生をかけても手に入れることはできない

「完璧な英語」を求めていた或る日本人女性に出会った話

もう数年も前のことになる。

フィリピンのセブに語学留学に行った時の話だ。

今ではもう、とぎれとぎれになってしまった記憶の中に一人の日本人女性がいる。

彼女の言葉が、忘れられない。

その人は英語を学ぶために、様々な国をワーキングホリデーで渡り歩いたと語っていた。

オーストラリア、カナダ、アメリカへと渡り、かれこれ10年ほど、日本にはまともに帰っていないと私に言った。

とても若々しく、溌溂とした笑顔を見せるその女性は、非常に魅力的だった。

気さくで面倒見のよい彼女の性格に甘えるように、よく話をさせてもらったのだが、彼女との会話の中に、1つだけ、引っかかることがあった。

 

「日本にはまだ帰れない」

 

それが、彼女の口癖だったのだ。

 

一体いつまで?

 

そう問う私に、彼女はあっさりと当たり前のようにこう答えた。

 

完璧な英語を習得するまで」と。

 

私はその言葉にまるで条件反射のように、そんなことを、目標にしては、だめだ、と強くはっきりと思った。

それなのに、言葉を濁した。

当たり障りのない、共感をもった頷き方をして、すごいですね、と一言添えた。

すぐに議論から逃げる、私の悪癖が顔を出した瞬間だった。

相手の言葉を否定するのを避けて、最初から諦めたように自分の言葉をしまい込んでしまう癖は、小さな歪をいくつもいくつも私の中に植え付け、そのとき飲み込んだ考えを時折なんの脈絡もなく、ぐるりと何度も頭の中で一周させるのを好む。

 

「完璧な英語を習得するまで」

 

誇らしく、そう答える彼女に、私は本音を言えなかった。

 

「そんな、バカげた話があるものか」

という偽りのない言葉を。

 

語学学習は手段であり、終りのある目標ではない

私は生まれながらの日本人で、日本語を話す。

日本の文化に触れて育ち、日本人としての国籍を有して、生きている。

それでも完璧な日本語を扱えるわけではない。

知らない漢字も多くあり、日常でも書けない読めない漢字は珍しくなく、染みついた方言を取り去ることなどできない。

人前に立って話をするとき、まるで言葉を失ってしまたかのようにしどろもどろになってしまった経験だってある。

 

そもそも

完璧な日本語

って、なんなんだ。

 

私が日本人として生まれ、日本語を母語にし、日本語で思考しているという意味において、それを完璧と名付けるなら、母語以外の言語を完璧に習得するなんて絶対に不可能だ。

ならば外国語に、完璧さを追いかけることなんて、できるわけがないじゃないか。

いや、違う。

問題は、そこじゃない。

この強烈な違和感は「完璧な」という形容詞と、言語という存在の間にある圧倒的な隔たりのようなものだった。

「完璧な英語」

その言葉の組み合わせは「腐らない林檎」のようなもので、そんなものを手に入れることを人生の目標にしてしまったらなんて、考えるだけでも恐ろしいのだ。

言語は、生き物のように、日々変化していく。

時代によって、話し手によって、状況によって、受け入れられるものもあれば、拒絶されるものもあるだろう。

だが、そこに変わらずに、あり続けるものがある。

絶対に言葉に寄り添い続ける存在、それは言葉を扱う人間だ。

伝える人間と、それを受け取る人間との関係。

言葉は人間がコミュニケーションをとるための手段だ。

必ずそこには、流動的で捉えどころがない人間と人間の関係がある。

だからどの言語を学ぶにしても、語学という学問の荒野はあまりに茫漠としていて、自分の視界にすべてをおさめられるものではない。

そのうえで確かに1つ、いえることがある。

言葉は手段だ。

何かを伝えるためのただの手段だ。

そして、本当に大事なのは、手段じゃない。

目的だ。

言語を学ぶことは簡単じゃない。

多大なる時間と反復の繰り返しが課せられるただの作業。

そこまでして、ようやく一つのツールとして手に入れた外国語。

その手段(外国語)を使って、自分が何を、それほどまでに苦労して、誰に何を伝えたいか。

ただその一点に目指すものがあるんじゃないのか。

 

「あなたは”完璧な英語”を手に入れて、いったい何がしたいんですか?」

 

日本に帰れないと言った彼女に、その問いを投げかけることができなかった自分の無難さを若さのせいにしながら、私は自分に問いかける。

何を伝えたいんだろう。

日本語ではない、言語を使うことによって。

何を知りたいんだろう。

馴染みのない言語を必死に目で追い、耳で聞きながら。

そのためには、私のしたいことを叶えるためには、一体どれくらいの語学力が求められているんだろう。

その限界さえ突破できれば、いいんじゃないだろうか。

そこに終わりを見出してしまってしまっても、いいんじゃないだろうか。

先の見えない荒野に向かって、人間は延々と走ることはできない

完璧な英語。

その言葉の響きは一見、神々しい光を放ち、われわれの目をくらませる。

絶対に手に入れることのできない、神話の中に謳われている宝物のようだ。

だからこそ、英語を完璧に使えるカッコいい人間になりたいなどと、自分の子供が目を輝かすことがあれば、苦笑を浮かべつつ、英語を使って何がしたいのか、と真剣に問いてもよいのではないだろうか。

もしかすると英語ではなく、ロシア語、フランス語、イタリア語、もしくはアラビア語やラテン語を学ぶことで、選べる近道もあるかもしれない。

目標のために必要な語学力を、できるだけ若いうちに身につける努力は決して無駄ではないだろう。

先の見えない荒野に向かって、あまりに長い道のりを、人間は全速力では走れない。

だからこそ完璧な英語という虚像に、否を突き立てる。

それは、語学学習における第一歩になるのではないだろうか。

その根っこにある、自分を駆り立てる純粋な動機をはっきりとさせるためにも。

手に入らないとわかっているものを追い求めて

完璧な、英語。

そんなものは、存在しない。

絶対に、どこにも存在しない。

自分の望む未来を手に入れるための、完璧な手段など、どこにも存在しない。

でも、もしかすると

彼女も心の底ではそのことに、気づいていたのかもしれない。

「絶対に手に入らない宝物を永遠に追い続けること」

それこそが、もしかすると彼女の本当の目的だったのではないだろうか。

 

旅の終わりを見ないように。

英語を学ぶという目的を失わないために。

 

あどけなく笑う少女のようなあの女性の、笑い皺に刻まれた年数を、数えることはできなかった。

彼女はいつ海を渡って、帰ってくるのだろうか。

もしかすると、永遠に…。

Body of Water during Dawn

完璧な英語を手に入れるまで、日本には、帰れない。

私はきっとこの言葉が持つ恐ろしさに戦慄し、口を閉ざしただけなのだ。

そして知らぬ間に自分自身もまた、亡霊の影を追うように英語を学んでいないかと顧みて、今日も海の向こうのまだ見ぬ光景に、私は思いを馳せている。

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