今回の記事では、Ernest Hemingway(アーネスト・ヘミングウェイ)
- Cat in the Rain(雨の中の猫)
の和訳をしたいと思う。
Ernest Hemingway(アーネスト・ヘミングウェイ)とは
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)はアメリカ合衆国出身の小説家・詩人。1899年7月21日 に生まれ、 1961年7月2日没。
ヘミングウェイは、ほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期に書き上げている。
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晩年は、航空機事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされ、1961年7月2日早朝、ショットガンで自殺。
『Cat in the Rain』とは
「Cat in the Rain(雨の中の猫)」は1920年代(1924年)にヘミングウェイによって書かれた短編小説である。
ヘミングウェイの最初の短編小説集「In Our Time(われらの時代)」の10章に収録されている。
『Cat in the Rain(雨の中の猫)』翻訳
そのホテルにいるのは、二人のアメリカ人だけだった。彼らは、部屋を出入りする階段ですれ違う人々を、誰も知らなかった。部屋は2階にあり、海に面していた。その部屋からは、公園と戦争記念碑も見えた。公園には大きなやしと、緑のベンチがあった。天気が良い日には、いつもイーゼルを持ち込む画家がいた。画家は、やしが育っていく様子や、公園と海に面したホテルの明るい色調を好んでいた。
イタリア人たちは戦争記念碑を見上げるために、はるばる暇にやって来た。その記念碑はブロンズ製で、雨の中でぎらりと光っていた。雨が降っていた。雨の雫が、やしの木々から零れた。水は、砂利道に水たまりとして注ぎ落ちた。海は雨との長い境界線の中で荒れ、海辺に引いては押し寄せ、そしてまた、雨との狭間のうちに砕けるのだった。自動車が、戦争記念碑の傍にある交差点を通り過ぎていった。交差点を横切った先のカフェの戸口で、ウェイターが誰もいない交差点を眺め、立ち尽くしていた。
アメリカ人の妻は、窓から外を眺めていた。窓の真下のテラスで、1匹の猫が雨に濡れた緑のテーブルの下で丸まっていた。猫は濡れないように、と必死に小さくその身を縮めていたのだった。
「私、下に降りてあの猫を拾ってくるわ」とアメリカ人の妻は言った。
「僕がするよ」彼女の夫はベッドの上から申し出た。
「いいの、私が捕まえてくるわ、あの可哀そうな子猫を。テーブルの下で濡れないように、必死になっているの」
夫はベッドの足元で二つの枕を支えにしたまま横たわり、本を読み続けていた。
「濡れるなよ」と彼は言った。
妻は階段を降りた。するとホテルのオーナーは立ち上がり、彼女が受付を通り過ぎると、お辞儀をした。彼の机は、受付のうんと端にあった。彼は年老いていて、とても背が高かった。
「Il prove(雨降りね)」妻は言った。彼女はこのオーナーが好きだった。
「Si, Si, Signora, brutto tempo. (ええ、ええ、奥様、酷い天気で)とても酷い天気ですよ」
彼は薄暗い部屋の端にある、机の後ろに立っていた。彼女は、彼を気に入っていた。甚だしいほど真面目に、客のどんな申し立てをも受け入れる様が好きだった。その重々しさが、好きだった。彼が、彼女に仕えようとする様が、ホテルのオーナーであると心得ている様が好きだった。年老いた重たい顔と、大きな手が好きだった。
彼のことを好ましく感じながら、ドアを開けて外を見渡した。雨脚は強まっていた。ゴム合羽を着た男が誰もいない交差点を渡り、カフェに向かって行った。猫は右手のあたりにいるはずだった。おそらく彼女は、屋根伝いに進めるはずだった。
彼女が戸口に立っていると、背後で傘がぱっと開いた。それは彼らの部屋の世話をしているメイドだった。
「濡れてはいけませんわ」とイタリア語訛りに、彼女は笑った。もちろん、あのホテルの支配人が彼女を遣わせたのだった。
濡れないようにメイドが傘を持ちながら、彼女は窓の下まで砂利道を沿って歩いた。テーブルは雨の中、明るい緑に洗われていた。だが、猫はいなかった。彼女は、急にがっかりした。メイドは彼女を見上げた。
「Ha perduto qualque cosa, Signora?(何かお探しですか、奥様)」
「猫がいたの」とアメリカ人の少女は言った。
「猫?」
「Si, il gatto(ええ、猫よ)」
「猫?」メイドは笑った。「雨の中の、猫?」
「ええ」彼女は言った。「テーブルの下に」すると「あぁ、私すごくほしかったのに。子猫が欲しかったのに」
彼女が英語でそう話すと、メイドの顔が強張った。
「来なさい、Signora(奥様)」彼女は言った「私たちは、中に戻らなくてはいけません。あなたが濡れてしまうわ」
「ええ、そうよね」アメリカ人の少女は言った。
彼らは砂利道を辿って戻り、ホテルのドアをくぐった。メイドは外で傘を閉じていた。アメリカ人の少女は受付を通り過ぎた。机から支配人がお辞儀をした。少女の内側で、何かが、とても小さく締め付けられるように感じられた。支配人が彼女に、とても小さいけれども同時に、本当に大切なものを感じさせたのだ。彼女は瞬時に、何よりも大切なものの存在を感じ得た。彼女は、階段を上っていた。
彼女は、部屋のドアを開けた。
ジョージがベッドの上で、本を読んでいた。
「猫はつかまえられたかい?」と、彼は本を置きながら、尋ねた。
「いなかったわ」
「何処かに行ってしまったんだろう」彼は読書から目を休めながら、言った。
彼女はベッドの上に腰かけた。
「私、すごくほしかったの」彼女は言った。「どうしてか、わからない。私、あの可哀そうな子猫が欲しかった。雨の中、外にいる哀れな猫、何一つ楽しいことなんてないだろうに」
ジョージはまた、本を読みだした。
彼女は立ち上がり、鏡台の前に座ると手鏡をもって自分を見つめた。彼女は自分の横顔をじっと眺めた。一方から、もう一方へ。そして、後頭部とうなじをじっと見つめていた。
「私が髪を伸ばすのって、どう思う?」自分の横顔をもう一度見つめながら、彼女は尋ねた。
ジョージは顔を上げ、少年のように刈り込まれた彼女の後頭部を見た。
「僕は今のままが好きだな」
「私、もうつかれちゃったの」彼女は言った。「男の子のような見た目に、つかれちゃったの」
ジョージはベッドで寝返りをうった。が、彼女が話始めるまでは、目を逸らさなかった。
「君はすごく、すごく可愛いよ」彼は言った。
彼女は鏡台の上に鏡を置くと、窓の方へと向かい外を見た。日が落ちかけていた。
「私ね、髪を後ろに引っ張って、なだめかして、自分で分かるくらいに大きな結び目をつくりたいの」彼女は言った。「それから子猫を飼って膝の上にのせて、なでるとね、ゴロゴロって鳴くのよ」
「へぇ?」ベッドの上からジョージは言った。
「それでね、自分の銀食器で食事をして、キャンドルもほしいわ。楽しいままでいたいの。鏡の前で髪を梳いて、それから子猫と新しい洋服が欲しいわ」
「そろそろ、静かにしてくれないか。何か本でも読んだらどうだ?」ジョージはそう言って、また本を読み始めた。
妻は、窓の外を見ていた。今では、すっかりと日が暮れていた。ヤシの木々の合間に、まだ雨が落ちていた。
「それでね、猫が欲しいの」彼女は言った。「猫が欲しいの。猫が欲しいの、今。長い髪や、他の楽しみが手に入らなくても、猫なら手に入れられるわ」
ジョージは聞いていなかった。彼は本を読んでいた。妻は、交差点が光で照らされるのを窓の外から見ていた。
誰かがドアをノックした。
「Avanti(どうぞ)」ジョージは言った。彼は本から目を上げた。
戸口にメイドが立っていた。彼女は尻尾を揺らした、大きな錆び猫をきつく抱いていた。
「すみません」彼女は言った。「支配人が、これを奥様にお渡しするように、と」
『Cat in the Rain(雨の中の猫)』の考察
大学の英文学の講義で、ヘミングウェイの短編を読む機会があった。
幾つか読んだ作品の中で、一番印象的だったのが、この作品だ。
雨の中の猫。
それを無性に欲しがる女の、少年のような髪形を「かわいい」と褒める夫に、彼女は不満を抱いている。
この夫婦の年齢は?
結婚してからどれくらいの月日が流れているのか?
詳しい情報は、何も書かれていない。
ただ間違いなくわかるのは、妻が夫に不満を抱いているということである。
子猫は、赤ん坊の象徴なのだろうか。
母親の子宮の中で体を丸めた胎児の代わりに、雨に濡れて縮こまっている猫の救済を果たすことで、彼女の抑圧された願望は叶えられるはずだった。
でも雨の中の猫は、どこかへ行ってしまったのd。
彼女は、猫を手に入れられない。
猫すらも、手に入れることができないのだ。
その瞬間、彼女は少女と例えられて、途方に暮れる。
そう、彼女は、母になりそこなったのだ。
それでも年老いた、自分を敬う支配人の眼差しが、彼女を救う。
彼女は実感する。
自分が求めているものは、何か。
自分が求めるものは諦めるべきものなどではなく、手に入って当然のものであるということを。
だから、夫にこう言った。
何度も何度も。繰り返し。
子猫が、欲しい。
子猫が、欲しい。
子猫が、欲しい。
その一言で、自らがやはり女であることを、夫に強く表明するように。
でも、その叫びを聞き入れたのは、夫ではない。
届けられたのは、彼女の望む猫とは少し違った大きな成猫。
彼女の願いを叶えてくれたのは、別の人。
ヘミングウェイは、きっと猫好きだったんだろう。
少しイタリア語を学びたくなった。
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